志願者担当補佐の尽きせぬ

 山谷 篤 (志願院養成担当補佐) (1) (2) (3)

長い前置き
ある統計によれば、日本の親は他の国の親に比べて子育てが楽しい、子供の成長に満足しているという人の割合が低いということです。子育ての満足度が低いのは、やってもやってもこれでいいという先が見えないのと、その背景には「子供をよりよく育てなければならない」という目に見えない社会的なプレッシャーがあるからだと言うことです。つまり「これでいいや」ということを、こと子育てに関しては認めない社会的な雰囲気が日本には強いという事だと思います。

山田 昌弘とい方は
「パラサイト・シングル」という言葉を作った人ですが、彼がある著書で次のように言っています。

「今の親が感じているのは『子供をよりよく育てなければならない』というプレッシャーである。親のプレッシャーは子供の側に『親の期待に応えなければならない』という形で伝わる。これが現代の親子関係を心理的に複雑で難しいものにしている。」
と言っています。さらに
「今、親子関係、子育てに必要とされているのは『子供のために親はどうすればよいか』を考えることではない。親自身を『よりよい子育て』のプレッシャーから解放するためにはどうしたらよいかを考えることである。」

     
山田昌弘著『家族のリストラクチュアリング』新曜社

彼はこのようなプレッシャーがなぜ日本の社会にあるのかについて分析しているんですが、それによると、日本には秩序を優先する考えが強いからだと言うことです。

その秩序優先というのは、戦前では戦争という目的を遂行するため、戦後では経済成長という目的を遂行するために出来上がってきたということです。つまり戦前では「欲しがりません勝までは」という標語にあるように、個人の自由や欲望など反秩序的なものは単なる我がままとして2次的3次的な優先順位になり、戦争目的を遂行する国家や企業、家庭という社会を形成する秩序が先ず第一に優先されたのだと言うことです。それが戦後になってからは、戦争と言う目的が経済成長という目的にすり替わっただけだと言うのです。

確かに社会の秩序を守ることは重要なことだと思います。日本は犯罪も国際的に見れば少ないし、先進国の中では離婚率も低いと言われています。秩序優先は一方でそのような良い面を与えてくれましたが、しかしもう一方では、問題を内にはらんでいながらも、秩序を守ることを優先させるために、問題にふたをしてしまうということも起きます。

日本の離婚率は他の先進諸国に比べてかなり低い。一見すると日本の家庭は非常に安定しているように見えるのですが、その実、家庭内離婚などが現実にはあり、家庭という形だけが存在していて実際には空洞化が深刻化しているとも言われています。形や世間体だけが重視されて中身が空洞化していく危険性を秩序優先という考え方ははらんでいると言えるでしょう。宮治真司という人はそのような現代家族を「際限なきロールプレイング」と言う言葉で表現しています(宮治真司著『制服少女たちの選択』)。つまり親子関係においてそれぞれの役割を演じる家族という意味です。彼等が演ずる演目は友達親子であったり友達夫婦という一見明るく爽やかで、権威的ではない平等思想に基づいた民主的な開かれた家族です。しかし、表面的にはすばらしい家族でもその中身はよい父親、よい母親、よい子供という役を演じているだけで、実はそれぞれ一旦家族という場を離れるとバラバラな世界に生きているという空洞化した家族です。

私は、危険だと思うのは「こうあるべき」という枠組みや秩序から教育や子育て、家族、そして修道会の養成が議論されることだと思います。確かに「子供はよりよく育てる」というのは当たり前ですし、それに反対する人はいないでしょう。しかし、だから父親は、母親は、家族は、教育は、養成はこうあるべきという言い方になっていないでしょうか。父親や母親、家族という「こうあるべき枠組み」を守ることに社会全体の圧力がかかっていて、硬直化し、空洞化しているように思うのです。決められた父親象、母親象にとらわれ、それぞれがよい父親、よい母親、よい子供、よい養成者、よい志願者、修練者、神学生を演じているだけで、内実がともないわない。表面的にいい家庭、いい教育、いい養成だけど・・・

聖書にマルタとマリアの二人の姉妹が登場します。ある日、イエス様がこの姉妹の家に招かれて行きます。マルタは一生懸命にもてなしの準備をし、忙しく働いていますが、マリアはそんな姉のことなどおかまいなしにイエス様の話を聞いています。当時でも現代でも同じでしょうが、女性として評価されるのはたぶんマルタの方でしょう。良き母親、良き妻はマルタの方であり、世の男性はマルタのような女性をお嫁さんにしたいと思うのではないでしょうか。でも、マルタの内にも神様の御言葉への渇きがあるはずです。マルタはある意味でイエス様や他のお客様方の前で良き母親、良き妻、良き女性を演じていたのかも知れません。そこでイエス様は「必要なことは一つだ」とマルタに諭します。イエス様の求めるのは、表面的な良さではなく、心を開いて神の言葉を聞くことです。私たちもマルタのように、表面的な良さに捕らわれて、大切な中身を見失ってはいないでしょうか。
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