OFM-Japan

Franciscan Province of Japan フランシスコ会日本管区

新総長のホミリア

image「自分の財産を頼みとするな。『私は、何でも思いのままだ』と言うな。本能と自分の力に引きずられ、欲望のままに生きてはいけない。」(シラ書5:1) 第一朗読、シラ書のことばは私たち小さき兄弟たちゃキリスト者に、すなわち両者のすべてに神の霊以外、何もののカにもより頼まないようにとチャレンジしています。

新総長誕生

2013年5月22日、新総長に兄弟マイケル・アントニオ・ペリーが選ばれました。

image

Br. Michael Anthony Perry, ofm

誕生:1954年6月7日
アメリカ合衆国インディアナポリス出身
着衣:1977年6月25日
初誓願:1978年8月11日
荘厳誓願:1981年10月10日
司祭叙階1984年6月2日
米国イエスの聖心管区

2013年復活祭総長書簡

clip_image002

主の復活の主日
2013年3月31日

clip_image004

「信じます。不信仰なわたしをお助けください」(マルコ9 、24)
「その方は復活された」(ルカ24,6)

clip_image006親愛なる兄弟姉妹たち、この言葉は、イエスの復活後に飲食をともにした人々の経験です(使徒 10,41参照)。また、「希望を持たせ朽ちることのない遺産を受け継ぐ者」(I ペト 1,4)となった人々の経験です。「その方は復活された」。これはわたしたちの信仰の基礎であり、わたしたちの希望と愛の理由です。「キリストが復活しなかったとした ら、わたしたちの宣教も無意味なものであり四あなた方の信仰も無意味なものとなるでしょう」 ( Iコリ15,14)。この経験なしには、イエスの十字架とわたしたち自身のそれは悲劇となってしまい、キリスト教徒の生活は馬鹿げたものとなってしまうでしょう。しか し、わたしたちは典礼の中で「幸いなる十字架、唯一の希望」、また「聖書に書いてあるとおり三日日に復活した」 (Iコリ 15,4)と歌います。これはわたしたちの信仰、そして最初の教会の宣教、すなわち「これがわたしたちが宣べ伝えること」 (Iコリ 15,11) の 核心です。復活は父である神の御子に対する「肯定」であり、また御子のうちにあってわたしたちに対する「肯定」でもあります。これはまたわたしたちの宣言の主題であり、わたしたちの信仰の基礎でもあります。

「そうです、その方は本当に復活されました」

わたしはいつも東方教会のやり方に感銘を受けます。それはこの季節、お互いに次のような言葉を交わすやり方です。「キリストは復活されました」、それに応えて「そうです、その方は本当に復活されました。そうです、その方は復活されました。わたしたちは信仰年というこの時期に、この信仰告白をします。つまり、ベネディクト16世が述べたように、「それは教会が、世の唯一の救い主であるイエス・キリストへの信仰の熱意を新たにし、キリストが示してくださった道を新たな喜びをもって歩み、すべてのものを造り変える信仰の力を具体的な形であかしするためです」(ベネディクト16世、『一般謁見』 2012年 10月 17日。カトリック中央協議会訳)。

信仰:生涯にわたる旅

この復活祭の手紙を信仰というテーマにささげることは不思議に思われるかもしれません。信仰はフランシスカンと修道者の生活に明らかな必要条件と考える人もいることでしょう。わたしはそうは考えません。特に「信仰の深い危機が多くの人々に影響を及ぼしている」 (『信仰の門』2)現代においては、信仰は決して当然のものとして考えられません。さらに「洗礼によって始まり、生涯にわたって続く道を聞く「信仰の扉」(使徒 14,27)を通リ、また死から永遠のいのちヘ移ることで閉じるので」(『信仰の門』1)、わたしたちの信仰を見直すことはあらゆる時期と状況に必要なことです。その結果、信仰は日ごとに成長し、「これまで以上にはっきりとキリストと出会うことの喜びと刷新された情熱を照らす」(『信仰の門』2)ことができるでしょう。わたしたちは勇気を奮い起こして問わなければなりません。「わたしは信仰者なのか、それとも活動的な無神論者なのか。わたしの信仰の「健康」の現状はどうなのか」。わたしたちはまた、これらのような重要な問題に、まじめにそして心から答えるために必要な明噺さを持つ必要が あります。教皇がしばしば述べられている教会内に存在する信仰の危機がわたしたちの中にも大いに存在するということは、真実からかけ離れたことではないと思います。このように言う時、理論的な神学や諸概念についての信仰をわたしは考えているのではなく、毎日の生活の中で祝われ、生き抜かれ、そして告白される信仰のことを考えています。

兄弟たちの大部分が、かっこよさや賞賛を求めることなしに、自分自身を毎日惜しみなくささげていることをわたしたちは否定できません。むしろ、大部分の兄弟たちは、告白され、生き抜かれ、そして祝われる信仰を謙遜に証言し、希望に忠実に、そして生活から過越の神秘という振る舞いを生み出しています。信仰に敵対する一連の態度として理解され、また社会の多くの部分に影響を与えている世俗主義は、わたしたちの兄弟的共同体やわたしたちの生活の中にも入り込んできましたし、永遠の地平の衰退や現実的なものが単なる地上的な次元に還元されることが、砂を窓枠から放り投げる効果を信仰にもたらすことは、本当です。すなわち、信仰を衰えさせ、消滅させるということです。わたしたちの信仰のうちにゆっくりと留まり、そして深く反省することは、特に信仰年のあいだに必要です。1989年 に当時のラッツインガー枢機卿が「現代の背教は、信仰がキリスト者の生活の中でほとんど反映されていないという事実に基づいています」と語ったことは、時宜にかなったことです。

生活である信仰

教皇ベネディクト16世は信仰についての最初の教え(2012年 10月 17日)の中で次のように述べています。「主を信じるとは知性と知的理解だけにかかわることがらではありません。むしろそれは人生とわたしたち全体を変化させます。それは感覚、心、知性、意志、身体、感情、人間関係のすべてにかかわります」。そして、また同時に次のようにも述べています。「信仰は本当にわたしたちの人生を、わたしの人生を造り変える力でしょうか。それとも信仰は、人生の構成要素に一つにすぎず;人生全体にかかわる決定的な要素でないのはないでしょうか」。わたしの親愛なる兄弟姉妹たち、わたしたちが自ら問わなければならないのは、このことです。なぜなら信仰は、生活から分けられたものではなく、生活の魂であるからです。「愛のわざを実践し、強い希望に満ちたキリスト教信仰は、人生を制限せず;むしろそれをより人間らしいものとします。そればかりか、人生を完全に人間らしいものとするのです」(教皇ベネディクト16世、同上)。わたしたちは生活に言及することなく、信仰について語ることはできません。なぜなら、信仰を理解可能なものおよび魅力あるものにするのは、生活だからです(ヤコブ2,lff.参照)。信仰と生活は互いを相互に求め、それらはお互いに支え合います。さらに、信仰によって支えられて、わたしたちは罪の構造を変化させるわたしたちの関わりに信頼を置けます。わたしたちは「神の約束によって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいる」 (2 ぺト、3, 13)からです。信仰と生活と同様に福音の価値に調和した社会への関わりと信仰との一致により、わたしたちは「世界の中で復活された主の現存のしるしを生きる」(『信仰の門』15)でしょう。このことは、2006年の総会の総括文書で次のように言われていることの理由です。「信仰はわたしたちのすべてを含んで、います(中略)信仰の生活はわたしたちの喜びと希望、わたしたちがイエス・キリストの弟子であること と世界に対するわたしたちの証しの絶対的な源です」(2006年臨時総会総括文書』,18)。それゆえ、信仰と生活は不可分です。

聖ボナヴェントゥラは『ブレヴィロクィウム』の序文で、わたしたちが述べていることに関して非常に啓発的なものとわたしが考える三つのイメージで信仰を定義しています。つまり、信仰は「安定性を与える基礎」、「行灯」、「入り口」です。基礎として、信仰はわたしたちの生活に安定性を与えるものです。行灯として、信仰は行くべき正しい道をわたしたちに見ることをゆるし、また見せる光です。入り口として、信仰はわたしたちをさらに進め、至高者との交わりへとわたしたちを導くものです。信仰は、わたしたちを入り口に到達させ、それを聞かせる光であり、そのようにしてわたしたちは神の世界に入り、神ヘ向かって歩むのです。

信仰:恵みと責任

信じることはまず、ふさわしくないわたしたちを祝福する恵み、すなわち信仰の恵みを受け入れることです。「主は彼女の心を開いて、パウロの話に耳を傾けさせた」(使徒16,14)と、パウロがリディアで語っている場面で、使徒言行録は述べています。フランシスコもこのことを『遺言』の中で認めて、「主はわたしにそのような信仰を与えてくれました。(中略)主はわたしにそのような偉大な信仰を与えてくれましたし、今も与えています」(『遺言』4 、6 参照)と述べています。フランシスコにとってもわたしたちにとっても、すべては恵みです(『遺言」 1,2.4,5.14,25.参照)。信仰もまた恵みです。この理由で、信仰はいつも人間の中から働きかけ、また変容すること、および精神と心の回心を得させることを目的としています。しかし、信仰はまた、それを保持し、それを成長させるための人格的な関わりでもあり ます。このため、ベネディクト16世は信仰年に、わたしたちが「信仰の豊かな賜物を心の うちに持つ」(『信仰の門』8)べきことを示唆しています。ヒッポの聖なる司教(アウグスティヌス)はすでに『信仰箇条再考」に関する講話の一つの中で次のように述べています。信仰箇条が与えられている時、「あなたがたは信仰箇条を受けていましたが、しかし、あなた方はそれをいつも精神と心にそれを持たなければなりません。あ なたがたはそれを寝床で唱えなければなりません。それを広場で思い起こし、食事の間もそれを忘れてはなりません。また、肉体が眠っているときでさえも、あなたがたは心の中 でそれを見続けなければなりません」(聖アウグスティヌス、「説教』215,1)。初代教 会は、わたしたちが信仰を保持し、信徒の条件を覚えておくために信仰箇条を暗記するまで学ぶことを要求しました(「信仰の門』9参照)。この暗記と心の中で常に刷新していくことは過去のものにすぎないわけではありません。

信仰を現代に挿入し、人々の生活の質を高め、芥子種のように成長することで、未来へと開いていくことです(マタイ13,31) 。こうして、信仰箇条の内容――それはわたしたちの信仰の要約です――は歴史を作り、生活となり、主がわたしたちのうちに行なっている「神の偉大なわざ」へと開くのです。次に、信仰は、わたしたちが本当の、そして深い感謝を持って受け取る恵みです。感謝 とは、わたしたちに信仰を意識させ、そして「それを再生し、純粋にし、確認し、そして告白する」(パウロ6 世、使徒聖ペトロと聖パウロ、1967)ようにする責任です。信仰もこの世における塩であり光である身分を失わないことを、わたしたちが望むなら(マタイ5,13-16参照)、それは常に再発見しなければならず(「信仰の門』 4参照)、わたしたちが個人でも共同でも、内的にも外的にも告白することができるような仕方で喜びをもって生きられ、そしてそれを典礼とわたしたちの日常生活の中で祝わなければなりません(『信仰の門』 8,9参照)。わたしに与えられた信仰はまたわたしに託されまし た。それは信仰を保持し、成長させるためです。「人は心で信じ、(中略)口で信仰告白をします」(ロマ10,10)。喜んで受け取ることと責任は不可分です。

 

信仰:キリストと教会への忠実さ

信仰を要約し、それを記述する言葉は「遵守」、ある人格、すなわちキリストの人格への親密な遵守です。それは、教会が信仰箇条の中に、そして「教導職」を通して示す内容を喜びをもって「遵守」することです。信仰者の生活の中で本質的なイエス・キリストの人格の遵守は、しっかりとした祈りの生活、豊かな秘跡的生活、そしてみことばの祈りを込めた読書を通してイエスと人格的に出会うことを含みます。わたしたちは、信仰の分野において、イエスの人格に出会うことに関するすべてのものに十分に気づかなければなりません。その出会いなしに、わたしたちの遵守は理念あるいはイデオロギーになってしまい、決して人格あるいは生活様式になりません。さらに、教会がわたしたちに示す信仰内容への遵守は、そのような内容の認識、それらに対する深い省察、そして同じ教会についての信仰の見方を含みます二それは「わたしの信仰」を告白することではなく、わたし自身の信仰を教会の信仰にすることであり、愛する従順となり(『訓戒の言葉』3、6 参 照)、「教会によって示されたものに対して知性と意志を持って」(『信仰の門』1;「啓示憲章』 5) わたしの同意を与えることです。わたしは教会に属するという熱意を再生するために前回のシノドスへの招待を受けました。この熱意からのみ、わたしたちはフランシスコがしたように教会を「建て直す」ことができるのでしょう。

聖フランシスコよる信仰

小さき兄弟あるいはフランシスコに従う者として、信仰についての彼の旅と表現に、たとえ短くとも立ち止まること、そして振り返ってみることは重要です。フランシスコの書いたものに示されているように、彼の信仰がとりわけ明確な三位一体的およびキリスト中 心的な構造をもった神学的なものであることは、簡単に理解できます(『訓戒の言葉』1 、「1221年の会則』22,41-55,23,11、『管区長への手紙』 9,7参照)。フランシスコの霊的な経験は三位一体との親密な関係によって特徴づけられます。その一方で、直接飛び出してくるなにものかは、彼の信仰が教会的な次元を持ち、単なる個人主義的な見方を克服しています。フランシスコは、教会それ自体のように、「わたしは信じる」と「わたしたちは信じる」(「信仰の門』9参照)とわたしたちが言うように教えます。フランシス コは『遺言』の中で、「教会と司祭における信仰」を告白しています(『遺言』4-7参 照)。このことは、心に留めておく価値のあるもう一つの側面、すなわちフランシスコの信仰生活における教会の本質的な重要さ、教会のメンバーの完全さ、特に位階制あるいは司祭の完全さに負うものではなく、キリストと出会う教会が負っている重要さをわたしたちに理解させます。神は、教会が「崩れ落ちそうな」(cf. 2Cel 10-11; TC 13)時でさえも、教会において、教会を通してフランシスコに語ります。なぜなら、キリストはまた教 会の中に住んでいるからです。フランシスコはローマ教会を、たとえ「傷つき」また「罪深い」教会であったとしても、福音を生きるための脅威としては決して見なしません。彼は司祭について語るときに次のように言っています。「わたしは彼らの中に罪を考えたくありません。なぜ、なら、わたしは彼らのうちに神の子を見、彼らはわたしの主だからです」(『遺言』9 )。キリストにおけるこの信仰、教会において出会い、そして信仰を通して「教会と司祭」に渡されるこの信仰を通して、アッシジの貧しい者が至高者によって示された(『遺言』 14参照)生活様式を教会の裁可に委ね、『会則』の中で「主なる教 皇ホノリウス、彼の後継者、そしてローマ教会に従順と尊敬」(「1223年の会則』 1,2) を約束した理由が理解されます。

この同じ視点から、フランシスコが兄弟たちに「カトリックの信仰と生活」に従って生きるように命じた理由、そしてこのことが兄弟共同体の中に留まる条件であるべき理由が理解できるでしょう(「1221年の会則』 19,1)。また、聖フランシスコにとって「カトリック信仰」が志願者の識別のための基本的な判断基準の一つ(「1223年の会則』19,1参照)であり、教会が本当の信仰を識別する判断基準であることを容易に理解させてくれます。もう一つのことがあります。わたしたちが多くのテキストの中で「訓戒の言葉 l』に読 むように、「フランシスコにとって聖体の秘儀は信仰生活の核心でした」 (P. マルティネリ2012)。この秘儀の前で、肉に従って見ること、すなわち「見ないことあるいは信じないこと」(『訓戒の言葉』1,8参照)を避けるために、わた したちがすでに聖アウグスティヌスのうちに見いだしている表現の中にある精神の目あるいは信仰の日を活動させる必要があります(c£ C. ヴァイアニ2000)。最後に、わたしたちは、フランシスコにとって「聖体の秘儀」が「みことば」に親密に結びつけられているのを思い出さなければなりません。それは「みことば」が「聖体祭儀」と同じ論理のうちに考えられ、「当然の礼拝」(『全兄弟会への手紙』34-37参照)がなされるべきほどのものです。なぜなら、わたしたちは「みことば」と「聖体の秘儀」のうちに主をたたえなければならないからです(「全兄弟会への手紙』36 参照)。多くの言葉の中で、フランシスコはみことばを「見ています」。言葉の中に、フランシスコは今おられる御父の救いのみことばを聞いています(cf. 2LtF 34)。あなたがたが理解できるように、フランシスコの信仰は決して抽象的な信仰ではありません。今日、彼はわたしたちの前に信仰の証言として立っています。フランシスコが告白し、宣言し、また祝い、担っている信仰はこの容易ではない環境の中で、彼の生活によって証言されています。フランシスコがわたしたちに信仰の証聖者として告げていることは何でしょうか。信仰に関する限りわたしたちについて間われている変化は何でしょうか。

結論

親愛なる兄弟姉妹たち、教会の問題は「離れている」者のうちにあるとしばしば言われます。しかし、わたし個人としては、そのような人々が問題であるだけではなく、「近くにいる」者も問題だと思います。というのも、彼らが「信仰の門」を通り抜けることなく、そこにたたずんでいるということが問題になりうるからです。わたしたちが経験しているこの年は、信仰の門を通り抜けるという緊急の招きであり、わたしたち自身を夜間に旅をする巡礼者と見なし、そしてわたしたちをまず探しに出てこられなかったなら、わたしたちが求めることもなかっただろうお方と出会う歩みをはじめることです(聖アウグスティヌス、「告白』13,I 参照)。マルティーニ枢機卿が述べたよ うに、信仰は常に、三人の東方の賢者のように「請い求める信仰」であり、律法学者のそれのように「前もって準備された」信仰では決しでありません。(マタイ2, I 以下参 照)。パウロは弟子のテモテに、若かったときと同じように「信仰を求める」(2 テモテ2,22参照)ように述べています( 2 テモテ3,15参照)。ですから、わたしたち一人一人 に向けられた者としてこの招きを受け入れ、「信仰の高価な賜物を呼び起こす」(『信仰の門』8)ために、この恵みの年を活用しましょう。

キリストは復活された! まさに、彼は本当に復活された! 

わたしの親愛なる兄弟姉妹たち、ご復活おめでとう、この信仰の年によい歩みを!

ローマ、2013年3月19日 聖ヨゼフの祭日に 

あなたがたの兄弟であり、しもべであり、奉仕者

兄弟ホセ・ロドリゲス・カルバッリョ,ofm

OFM-Japan

Franciscan Province of Japan フランシスコ会日本管区