OFM-Japan

Franciscan Province of Japan フランシスコ会日本管区

総長マイケル・ペリーの、教皇フランシスコへの挨拶

2015年5月26日バチカンSala Clementinaにて

clip_image002私たちの愛するフランシスコ教皇様、私は小さき兄弟会の総集会に集まった兄弟たちを代表して、教皇様に心からの敬愛の挨拶を申し上げます。

私たちは、アシジの聖フランシスコが兄弟たちに集うように望んでいたポルチウンクラの聖堂において、5月10日より(総集会のために)集まっております。

ここにおります兄弟の一人一人が、心を合わせて、教皇様が常に私たちに示してくださる優しさに心から感謝しています。また特に、今日私たちに謁見の機会を与えていただきましたこと、また総集会のために親愛なるフランシスコ・ザビエル・エラズリッツ・オッサ枢機卿を派遣してくださったことに感謝いたします。枢機卿はその兄弟的な心遣いと保護者としての権威をもって、小さき兄弟会に対する教皇様のご配慮と愛情深い気遣いを私たちに伝えてくださいました。

しかしながら教皇様、私どもはこの場に、ほんのわずかの手土産もなく、空の手で参上してしまいました…。総集会の参加者はすでに教皇様へのお土産として準備していた(アルゼンチンの)マテ茶でさえも、全部飲み干してしまったのです!大酒飲みでもアシジにはもう一滴の酒も見つけられないでしょう!

私たちは、総集会のテーマを、「現代において兄弟であり、より小さい者であること」という短いフレーズに要約しました。二つの言葉が、このテーマに表現されています。それは、聖フランシスコ自身がその同伴者たちのために選んだ名前である「兄弟」と「より小さい者」というという言葉です。私たちのこの名称は、現代において、私たち自身に、「どのようにより小さい兄弟となっていくことができるか」と問いかけてきます。私たちは、現代のこの世界が私たちに証ししてほしいと望んでいることが、この「兄弟であること」「より小さな者であること」に他ならないことを自覚しています。私たちは、「主なる教皇様」である貴方のもとに(私たちを導いていただくために)参りました。これは、聖フランシスコが聖なるローマ教会への変わらぬ忠誠を示し、導きと矯正と勧告を受けるため、そしてそのようにしてイエス・キリストの足跡により忠実に踏み従っていくことができるようにと願っていたことと同じ想いによるものです。

私たちはまた、教皇様が環境保護・エコロジーのテーマについて語られるとき、私たちをその証しと分かち合いへと招かれるだろうということを自覚しています。このテーマは、私たちすべてのより小さい兄弟にとってとても身近で大切なものです。私たちは、この分野において、教皇様が私たちに望まれることを、可能な限り、具体的な優先選択として受け入れていくことをこの場でお約束したいと思います。

今回の総集会と、教皇様との謁見によって、私たちは、小さき兄弟としての私たちの生活が、活力と、勇気と、熱意を取り戻すことを心から願っています。こうして、私たちは、復活したキリストの言葉「あなたがたに平和があるように」という言葉を再び力強く宣言していく望みと力に満たされて、また教皇回勅「福音の喜び」(Evangelii Gaudium)の証し人となるべく、私たちが集まってきた五大陸へと再び帰っていくことが出来るのです!

しかし、時として私たちの生活は鈍くなり、小さき兄弟としての信用を失うということも起きてしまいます。聖なる教皇様、よくご存じの通り、私たちの兄弟会のカリスマである「小さくあること」「貧しくあること」の土台が、特に財産管理に関する不手際により大きく躓いてしまう出来事が発生しました。

この総集会において、私たちはこの問題に誠実さと透明性をもって取り組み、解決の道を探す努力を続けています。願わくはこの深刻な事態が、神の恵みによって、私たちが望んでいる本来の福音的な生き方へと復活していくための、過ぎ越しの体験となっていきますように。福音こそ、私たちの生き方の確固たる土台なのです。どうか主が、聖霊の導きによって、兄弟の絆の間に生じた傷をいやしてくださいますように。

聖フランシスコは会則の最初と最後において、「聖福音を守ること」という言葉と「教皇ホノリオと、教会法的に正しく選ばれた彼の後継者と、ローマ教会に対する従順と尊敬」という言葉を強く結びつけて表現しています。それゆえ、私はこの教皇様への挨拶を、会則の最後の言葉をもって終わりたいと思います。そこには、今日ここで、わたしたちがなぜ教皇様の前に参じているか、雄弁に語られています。すなわちそれは、「私たちが常に聖なる教会の足下に臣下としてとどまり、カトリックの信仰を堅持し、固く約束した通り、私たちの主イエス・キリストの清貧と謙遜と聖福音を守るため」であります。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

親愛なる小さき兄弟のみなさん

clip_image004ようこそ!私は総長である兄弟マイケル・ペリーの心からの言葉に感謝します。また皆さんの前にある取り組むべき課題に対して、励ましの言葉を送ります。また小さき兄弟会のすべての兄弟たち、特に、会のこれまでの歩みの記憶を担い、また十字架に架けられたキリストの現存の姿でもある、高齢の兄弟たち、病気の兄弟たちに挨拶を送ります。

この場に来られるまで、皆さんは特に兄弟会のアイデンティティーの二つの本質的な要素に身をゆだねての内省と祈りの日々を過ごしてこられました。すなわちそれは、「小さくあること(la minorità)」と「兄弟であること(la fraternità」」です。

私は、二人の若いアルゼンチン人の兄弟たちに、「私は『小さくあること』について何か話したいと思うが、何を話したらよいだろうか?」と助言を求めました。すると一人の兄弟は「神が私を小さくしてくださいます」と答え、もう一人の兄弟は「教皇様が今なさっていること、神に尋ねること、それこそ、毎日私が行っていることです」と答えました。これが、私の国の二人の若い兄弟が私に教えてくれた、「小さくあること」の意味です。

「小さくあること」とは、神の完全なあわれみに信頼し、その御前にあってこそ、小さくあり、また小さくあると感じることです。神のあわれみの前に「小さくあること」、つまり神の前での自分の小ささや、自分が神の助けを必要とすること、また神の前に自らが罪人であることを認めない者には、神のあわれみということの意味は理解できないでしょう。私たちはこのことに気づけば気づくほど、また救いへ近づけば近づくほど、自分がどれほど罪深いものであるのか、またどれほど救われる必要があるのか、深く自覚するようになります。福音書は、イエスの前に自らの貧しさを認めるものが救われていく、と語ります。救われる必要を感じない者には、救いは与えられません。それは決して救いへと招かれなかったからではなく、招きの声を聞き入れなかったからです。「小さくあること」とはまた、自分自身から抜け出ること、自分固有の視点や偏見から出ていくことでもあります。それは新たな取り組みへと一歩を踏み出すことです(賢明な踏み出しであれば、これはとても有益なことです)。また、それはこれまでの習慣や安全性を超えて、真実の分かち合いと奉仕の精神をもって、現実に貧しい人々、助けを求めている人々、辺境に生きている人々との親密な関係へと出かけていくことです。

また、「兄弟であること」の次元も、福音の証しの特別な方法です。初期のキリスト教会では、キリスト者は兄弟的共同体の生活を共にし、一致と愛の、目に見える魅力的なしるしとしていました。人々は、キリスト者が愛の絆によって深く結ばれ、赦し受け入れあい、隣人愛に満たされて、人生の喜びや苦しみを皆で分かち合っていることに深く感動していたのです。小さき兄弟会ファミリーは、この「兄弟であること」の絆を、相互の信頼を回復することを通して、具体的に示していくように召されています。私はこの「相互の信頼を回復すること」、人間関係の傷をいやしていくこと、を強調したいと思います。それは、この世界が、キリストの愛が傷を癒し、世界を一つにしていくことを、見て、信じるようになるためです。

このためには、小さき兄弟たちよ、自分たちが神のいつくしみと、和解と、平和の担い手であるという覚悟の部分が回復されていくことが重要です。もしあなたがたが、常に「外へと出かけていく」共同体であり続けるならば、きっとこうした召し出しへの豊かな実りを体験していくことになるでしょう。このことは、”Sacrum Commercium”に記されている、皆さんに与えられたカリスマとも一致します。皆さんの会の源泉資料であるこの物語の中で、最初期の兄弟たちは「あなたがたの修道院はどこか」と尋ねられました。その質問への答えとして、彼らは丘の上に上り、見渡す大地を指して、「これが私たちの修道院です」と答えたのでした(63: FF 2022)。

親愛なる小さき兄弟のみなさん、聖フランシスコが皆さんを招いていた通りに、世界全体であるこの修道院の中へ、キリストの愛に促されるままに、今日も出かけてください。聖フランシスコは裁可された会則の中でいいます。「私は主イエス・キリストにおいて忠告し、戒め、勧める。兄弟たちはこの世をめぐる時、争ったり、口論したり、他人を裁いたりせず、より小さい者にふさわしく、柔和で、平和をもたらし、慎み深く、温和、謙遜であり、すべての人に対して、礼儀正しい言葉を用いて話すようにと。……どの家に入っても、先ず『この家に平和があるように』と言う。そして、差し出される食べ物はすべて、聖福音によって食べることができる」(III, 10-14: FF 85-86)。(この最後の節がいいですね!)

この勧告の言葉はとても素晴らしいものです。これはまさに、今日の私たちの世界のためにも、「兄弟であること」と「小さくあること」の預言的な言葉そのものです。今日の世界において、キリスト者、信徒や奉献生活者が、争いや口論に自らを見失わず、すべての人々と静かな対話を深め、優しさと柔和さと謙遜をもって、メディアに惑わされず、平和で控えめな生活をし、与えられたもの以上に求めずに生きること、これ以上に重要なことがあるでしょうか!こうしたあり方はまた、他者との関係において、節度ある開かれた態度に貫かれた、透明さ、高い倫理観、良きことに向けられる連帯した心が求められます。しかしながら、もしあなたがたがこの世界の物質や富に固執し、そこに自分たちの安全性を置くのであれば、主ご自身が、あなた方をこの世界へ遣わされているカリスマからはじまって、聖フランシスコがあなたがたを招いたはずの「小さくあること」と「貧しくあること」の会の遺産をも、あなたがたから剥ぎ取ってしまわれるでしょう。みずからの意志で「貧しくあること」「小さくあること」を選ぶか、これらの遺産をすべて剥ぎ取られて終わるか、選ぶのは、あなたがた自身です。

聖霊は、奉献生活の霊的指導者です。聖霊にその道を明け渡せばそれだけ、教会とこの世界における私たちの相互関係と宣教を導いてくださいます。もし奉献生活者である兄弟たちが聖霊にすべてを委ね、その導きに従おうとするならば、彼らは、聖霊に導かれた兄弟的共同体の驚くべき神秘を見出し、他の兄弟への奉仕への霊感に満たされ、教会とこの世界における自分たちの預言的な存在の力強に気づいていくでしょう。また聖霊の光と力強さは、あなたがたの眼前に立ちはだかる闘い、特により小さい兄弟たちの数的な減少、高齢化、召命の減少に立ち向かう勇気を与えてくれるでしょう。これは確かに、一つの「闘い」と言えます。そして私はあなたがたに言いたいのです。神の民は、あなたがたを愛しています。クワラチーノ枢機卿が以前、私に次のようなことを言ってくれました。「私たちの街には少なからず聖職者嫌いの人々がいて、司祭が通ると「カラスだ」と言います。アルゼンチンで司祭は時にこう呼ばれます。人々は司祭をからかいます。まあ、そんなにひどい言い方ではないのですが、何か似たようなことを司祭に言うのです。しかし、絶対に、絶対に、絶対に、(クワラチーノ枢機卿はこう言いました)こんな言葉は、より小さい兄弟たちの修道服には、絶対に、言わないのです」。何故でしょう?あなたがたclip_image006は神の民の中で、「小さくあること」「兄弟であること」「柔和であること」「謙遜であること」「貧しくあること」の正しさを、正統に相続しているからです。私は皆さんに願います。どうかこれらの遺産を守ってください!これらの遺産を失わないでください!神の民は、あなたがたが大好きなのです。皆さんを愛しているのです。

あなたがたの道には、司牧者への愛情と称賛に加え、小さき兄弟たちに対するこうした良き人々の力強い励ましがあります。

私は、小さき兄弟会を、無原罪の聖母の御保護の下に委ねます。また私の祝福も皆さんの上にありますように。

最後に、どうか、私のために祈ることも忘れないでください。わたしにはあなた方の祈りが必要です!

感謝を込めて

教皇フランシスコ

OFM-Japan

Franciscan Province of Japan フランシスコ会日本管区