小さき花?

 今年から初期養成スタッフの中で誓願宣立後の兄弟達の担当になって、「小さき花」に原稿を書く事になりました。かつて神学生だったころ「瀬田」誌に記事を苦労しながら書いて以来の事です。去年日本にもどった時に、この小冊子のタイトルが「小さき花」に変わったのを知ったのですが、正直なところさほど感慨もなく、しかし漠然と「へー、どうして変えちゃったんだろう」と思いました。

 確かに日本管区の現状にはフランシスコの生き方やフランシスカンの霊性と照らして、変わらなければならない所は沢山あると思いますが、なんだかそういう生き方の中の変わらなければならないような所は一向に変わらないのに、別に変えなくても良いような所が変わったような気がしたからです。 しかし、先日学生さんたちに話を聞くと、編集方針の変更のきっかけになったそれなりの経緯も在ったようです。それにそもそも「小ささ」を表題に掲げる事が、単に牧歌的なメルヘンとしてのフィオレッティの世界に対する郷愁という、ディレッタンティズム以上のものならば、そこに現代の文脈のなかでフランシスカンとして生きようという、若い兄弟たちの意気込みを見る事も出来るのかも知れないと考えています。

 ところで先日、「小ささ」について本当に教えられた出会いがありました。この夏の終わりの事ですが、三歳の大成君という名の子供の葬儀を司式することになってしまいました。この子は生まれた時から重い障害を担う事になり、呼吸さえも誰かの付き添いが必要な寝たきりの子供でした。しかし、家族の手厚い介護に包まれて生きてきたのです。長い介護の後、子供を亡くしたご両親の悲しみは、私までもつらくなるほどでした。そして数日前のことですが、この子のお母さんが雑談の折りに「あの子のお陰で、神の国というのは、うちのタイちゃんみたいな子供が本当に中心になる事が出来るような、幸せになれるような、そう言う世界の事だってわかったんです。」と話してくださいました。このような神の国ついての言葉を私が口にしたり、書いたりしても、なるほどそうですか、という程度の事でしかありませんが、このお母さんが語れば、本当に衝撃力のあることばです。この若いお母さんは、子供との時間を、誤解を恐れずに言えば、深い祈りを強いられるような形ですごしたようです。物も言えずようやく生きている我が子を前にすごした言い尽くせぬ長い時間、その子供がもっと豊かに健やかに生きられるように、必死で救いを願ったでしょうし、またその子供の苦しみという理不尽について必死に黙想したと思います。そうして語られたこの人の言葉には力があって、神の国の徴になっています。そして私は神の国の徴にはなりきれていないわけです。私は「小さき兄弟」達の養成に関わるものとして、この違いを大切に受け止めてゆきたいと思います。傍目には、ただ本当に小さく弱いばかりの存在と、愛する事しか出来ずに関わって行くときに初めて、イエスが私達の世界にもたらし、福音として告げられている「神の国」がどのようなものなのかが見えてくるということでしょう。そして私の言葉が上滑りなことが示すように、なるほど私はまだ神の国の徴になりきれていないわけでは在りますが、フランシスカンが小さい兄弟だというのは、自分自身が、この神の国でこそ輝きを持つ小さい者であると言う事の宣言であると共に、この世界の中で、小さくされている人々の友となるという意思の表明だと思います。

 今の神学生達は青年というより熟年に近い人々で、人柄も落ち着いた人が多く、私が学生だっだ頃の神学生とは空気が大分違います。ちなみに私は十年ほど前のいわゆる第二共同体時代 (オプション・フォア・ザ・プアーを軸にした養成刷新の試みの時代)の学生で、その主犯格の人間です。第二共同体の評価を巡っては色々な意見があると思いますが、本当にフランシスカンとして生きたいという情熱とその基本的方向については決して間違っていなかったと思っています。私が学生だった時のマジステルである根本師が口癖のように「私は、自分の生涯の中で一瞬でも良いから、本当にフランシスコの兄弟として生きたといえるような時間が欲しい。それが私の夢なんですよ。」と言っておられました。根本師は難しい時期に色々誤解されながらも、学生一人一人をかばって、人間として尊敬し、口先でではなくて誠実に生きる素晴らしいマジステルでした。残念ながら私は根本師のような人格者ではなく、生活態度もなっていないし、神学生たちには申し訳ないところが沢山あります。しかし、小さき兄弟として生きたい情熱はまだ持ち続けていますし、きっとそれだけが私の取り柄でしょう。素直に考えれば、小さい兄弟として生きるということはなにも難しいことでは無いだろうと思います。なにか特別な能力や才能が必要な訳ではないし、特定のタイプの人間でなければならないという事でもないでしょう。ただ、イエスを通して、神の恵みに開かれているならば、小ささを愛するならば、先のお母さんのように、いやでも、小さい者として神の国の徴になって行くのだろうと思います。さてこの「小さき花」をお読みになる皆様は、初期養成中の兄弟たちの個性の豊かさにお気づきになることと思います。この兄弟たちが、それぞれどの様に「小ささ」を抱きしめ、どんなフランシスカンに成長して行くのか、楽しみにしつつ、これからもお祈りの内に兄弟たちを支えていただきたいと思います。

マジステル フランシスコ谷澤 律 神父