アルフォンソ・プポ (志願院養成担当者)
ときどき、信徒の方々と食事を共にすることがある。
「神父様、食前の祈りをお願いします」と、必ず頼まれる。「いつもの仕方で、皆さんでなさってください」と断ろうとしても、「とんでもございません、神父様ってプロですから」と言い返してくる。
"プロ?"。司祭、修道者なら、一体何のプロなのだろうと、つくづく考えてしまう。そこで、わざわざ大人や子供たちに聞く、「プロって、何?」。「"プロ"って"専門家"とか"すごく上手"っていう意味」とのこと。他に、「資格があって、仕事だからとてもよく出来る人」とか、「長年その分野を専門にしている人」、「毎日やっているのだからプロなのだ」、「アメリカに五年間住んでいたので英語はプロ」などと説明してくれる。「神父なら、毎日祈っているはずだから、祈りのプロ!」と、これが結論なのかな?。
"プロ"は英語の"pro"から来て、主な意味としては"プロフェッショナル""職業の"など。スポーツを仕事としている選手をアマチュア選手と区別するために、略語として初めて使われたのかもしれない。アメリカ人も日本人も略語が好きみたいで、長い単語は面倒くさいからか、省略されている言葉は数え切れないほどあるらしい。
"プロ"について辞典を調べると更に面白い。というのは、"pro"で略されている言葉が多くて、びっくりするほどだからである。でも、この文章の目的は違うので、そのいくつかの意味だけを紹介してみたい。
プロフェッショナル:職業の。
プロパガンダ:宣伝、宣伝運動、主義。
プロダクション:製造、生産、提供、演出、など。
プロスティチュート:売春婦、男娼。
私たちフランシスカンは何の"プロ"なのだろう。"プロスティチュート"?−彼らが私たちよりも先に天の国に入ると知っているが、兄弟姉妹として受け入れる以上は関係を持たないはずである。ある娼婦と出会うアシジのフランシスコの場面がひとつ記されている。『小さき花』の二十四章だが、読んでみてください。
"プロダクション"?−「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ六・二十七)。永遠に残る実を結ばなければ(プロダクション)ならないし、良い木は良い実を結ぶはずだが、私たちは物質的なものを製作するよりも、持っているものすべてを貧しい人々と分かち合うはずである。私たちは何かを作る者というよりも作られる者、いわば陶工である神の御手にある粘土(エレミヤ十八・一〜十六参照)。常に、創られたもののために、造り主である神に賛美と感謝をささげるはずである。
"プロパガンダ"?−政治的なプロパガンダではなく、回心を呼びかけ、み国を証しするように召されている。掲げる旗は○○主義の旗ではなく、唯一の主、キリストの十字架だけである。
"プロフェッショナル""プロフェッション"?−これは修道士・修道女の誰にとっても身近な言葉である。奉献生活の誓願、誓願式は、ラテン語では"プロフェッシオ"、英語や他のラテン系の言語では"プロフェッション"とか"プロフェッショーネ"などと言う。私の(イタリアの)身分証明書の職業の欄には"修道士"と書いてある。それなら、私もプロなのか。少なくとも何かのプロになろうとしているはずだが、修道生活は職業ではないことは間違いないと思う。
アシジのフランシスコは、「私はまた、自分の手で働きました。そして今も働くことを望みます。すべての兄弟もふさわしい仕事に従事するよう、切に望みます。」と、遺言の中に書き残してくださった(遺言・二十)。仕事が出来るのは大きな恵みである。でも、今の司祭、修道者は忙し過ぎる。仕事が多くて、そのために充実感や喜びを感じるかもしれないが、懸命に働いているからといって、それだけで召命を果たしているとは言えないと思う。
別の辞典を調べてみる。今度はラテン語の辞典である。"プロフェッション"はラテン語の"profiteor"(プロフィテオル)という動詞から来ている。使い方によるが、主な意味は三つか四つある。
一.(公に)宣言する。たとえば「信仰を宣言する」。
二.献身する。専念する。自分から進んで何かに自分を捧げる。宣言したことを一生懸命、実行に移そうとする。
三.作り上げる。実を結ぶ。
四.提供する。提案を出す。約束する。期待、希望を持たせる。
驚いた!。というのは、"プロフェッション"の中にはまるで一つのプログラムが入っているようだからである。私たちのプロフェッションは、単なる誓いの言葉でもなければ、単なる仕事でもない。それは、主の呼びかけに具体的に答える生活ではないだろうか。より良い実を結びながら人々に何かを証しし、何かを提供する。人々を静かに誘い、期待、希望を持たせるものである。
私たちの"プロ"は、資格からのものではない。実力でもないはずだ。なぜなら、これらすべてを捨てたはずだから。プロフェッショナルではない"プロ"、アマチュア(amateur=「愛する人」という意味)という"プロ"なのだ。
私は今年、初誓願の二十五周年を迎える。絶えざる回心の道を歩んできた"プロ"となっているはずだが、食前の祈りの"プロ"になったかも知れない。それ以上は…。
私たちの"プロ"、プロフェッションの中身を空しい自分の言葉で説明する代わりに、修道生活を始めるにあたって自ら願い、約束したことを思い出してみたい。
修練期は着衣式と誓願式、この二つの典礼儀式に挟まれた大切な時である。修道服を着衣するときに願うことや誓願宣立(プロフェッション)、また修道服の祝別の言葉が心に留まる。
修練期が始まる着衣式の中で志願者が述べる願いの言葉:「私は、小さき兄弟会の皆様と生活を共にし、回心を表す衣をまとい、皆様のもとで、主から呼ばれた小さき兄弟会への召命をよりよく判断するときを過ごしたいと願っております。そして、貧しく、謙遜に生き、主イエス・キリストの十字架を愛した聖フランシスコに倣って、すべての善と徳に満ち溢れるキリストに従い、キリストにかたどられた者となるため、愛と喜びの心をもって、主キリストのくびきを担うことを学びたいと思っております。」
修練期が終わる誓願式より誓願宣立の言葉:「いとも聖なる三位の栄光と賛美のために、私、兄弟○○○○は、神の息吹に促され、私たちの主イエス・キリストの福音とみ跡に忠実に従うために、この一年間、従順、無所有、貞潔のうちに生きることを、兄弟たちの立ち会いのもとに、兄弟○○(管区長)の手の中で、堅い信仰と意志によって、全能の神、聖なる父に誓います。あわせて、ホノリウス教皇によって認可された小さき兄弟たちの生活と会則を、小さき兄弟会の会憲に従って、誠実に守ることを宣言いたします。そのため、兄弟たちの助けに支えられ、聖霊の働き、汚れなきマリアの模範、師父聖フランシスコ、およびすべての聖人のとりなしによって、神と教会、そして、人々に奉仕することを目指し、愛を完全なものとするために、私は心から、この兄弟共同体に私自身を委ねます。」 修道服と帯の祝別:「神よ、この修道服とそれを結ぶ帯を祝福してください。これを用いることによって兄弟が、師父聖フランシスコの回心の道を喜びと朗らかさのうちに、信仰、希望、愛を深めながら、歩んでゆくことができますように。主・キリストによって。アーメン。」
あなたも、「プロ」になってみませんか。
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