金子 尚志 (修練長)
ある統計によれば、日本の親は他の国の 観光、ビジネス、留学などで外国を訪れる機会が増えている。そこでいつも問題になるのは言葉の問題である。外国に行った人なら誰もが体験することは、自分の言いたいことがうまく言えず意思の疎通のできない辛さであろう。ところで私たちが外国語を学ぶときにいちばん障害となるのは何であろうか? それは言語構造や発音の相違でも、またその国の文化や風習の違いでもない、当たりまえのことであるが、それは母国語を知っているということである。すなわち私たちが日本語をすでに修得していることが他の外国語を学ぶ上で大きな障害となる。いつも外国語を母国語に置き換えて考えたり話したりしようとする。最初から母国語がなければ置き換える必要はないのである。
修道会の門を叩く者にとって抜けきれないこの母国語とは何であろうか、それはこの競争社会を生き抜いてきた人たちにとって、修道会の中でも無意識のうちに「どれだけ自分の能力を示せ るのか」「どれだけ自分は有益な者であるのか」・・・それこそが修道者に相応しい者である・・・すなわちこの修道会の中で自分がどれだけ「有能な者」であるかを本能的に示そうとすることである。しかし修練期は「あなたが有能か否かに係らず神から愛されている!」という体験を集中的・凝縮的にする時である。その意味で修練期は、今までの社会で学んできた母国語から外国語へ置き換える期間ではなく、母国語そのものを無くす期間だとも言える。
ところで先日、とうとう周囲の必要に迫られて「携帯電話」を購入することになった。今までどうしても馴染めず、できることなら生涯持ちたくなかったものである・・・いざ手に取って驚いたことは、その軽さと手の平に入るほどの大きさである。これだけ軽くて小さければ、誰もがその便利さに魅せられるのは当然かもしれない。しかしそれ以上に驚かされたことは、この携帯を使いこなすための「取扱書」がいかに分厚く重いか、そしてたくさんの書類の山・何かのハガキ・保証書などなど。本体の携帯をはるかに超える重量である。今までの電化製品でこんなことがあっただろうか? テレビよりも重い「取扱書」、洗濯機よりもかさばる「説明書」・・・この「取扱書」を前にしてすでに購入したことを後悔している。便利さを獲得するためには、このような「取扱書」をマスターしなければならない。そんなときふと思う、私という人間についての「取扱書」の大きさはどのぐらいで、その分量はいかほどのものであろうか・・・? しかしこの質問自体がナンセンスなのかもしれない。なぜならあらゆる電化製品はその「使用目的」がはっきりしているからである。すなわち携帯は他者と音声やメールで交信をすること、テレビは映像を見ることで楽しみや教養を増すため、洗濯機は汚れた衣類やその他の布地を清潔にするためである。ところが製造者の意図とその使用者の思いが異なった場合がある。アメリカで実際に起きたニュースである、ペットの猫をお風呂に入れてそれを乾かすためにオーブントースターに入れ殺してしまったという笑えない事件である。さらに驚かされたことはメーカーに訴訟を起こした飼い主が勝訴したことである、すなわちメーカー側が製造者責任を怠ってその「使用目的」を明記しなかったことが敗訴の理由である。常識を明記しなければならないのが現代世界なのかもしれない。
それでは人間の「使用目的」とは何か? 換言すれば、信仰者として神の「製造目的」は何かと問うた方が良いかもしれない。人間は何のために創造され存在しているのか。神が愛をもって人間を創造されたのであれば、それは神ご自身の愛の受け手として創造されたのであろう、すなわち私たちは神から無条件で「愛されるために」創造されこの世界に存在していると言える。しかしこの社会は能力や才能を発揮し役立つ者こそが愛されるに相応しい者だと思い込ませようとしている。私たちは小さいときから社会 が要求するように、「どれだけ自分の能力を示せるのか」「どれだけ自分は有益な者であるのか」・・・というような「〜できること」を要求されそれに応えようと努力してきた、しかし神から愛されていること、すなわち「〜されていること」をマスターするのが初期養成でありとりわけ修練期のような気がする。このコペルニクス的転換(180°の転換)こそ修練期の辛さなのかもしれない。私たちの悲劇は製造者の「製造目的」と使用者の「使用目的」が異なることである。人間の「製造目的」が神から愛されるためであるなら、その「取扱書」はみ言葉と秘跡かもしれない。
「携帯電話」の普及が著しい、次々と新しい機種が発売されより複雑な機能が備わり便利さを増している。しかしどんな新しい機種であろうと、少なくとも今のところ「充電」しなければ使用できないのも確かである。「充電」すること、すなわち人間が自己の能力や才能を発揮する以前にそれ以上に神の愛で満たされていく体験とその味わい、これを倦むこなく修得した者だけがそれ以降の修道生活を営むことができる。人は「充電」した分においてしか働くことができない。もしその機能や能率さに目を奪われて「放電」ばかりしていると、いつのまにか私の存在は意味を失い使用目的が分からなくなってしまう。「充電」した愛をそれぞれの場でそれぞれの方法で「放電」すること、その形態は違ったとしても「充電」と「放電」のサイクルは変わらない。私の「携帯電話」はもう何日間も「取扱書」の上に置き放なしである、「充電」も「放電」もしていない、「使用目的」を果たさないままである。製造者に申し訳ない限りである。
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