完全な喜び

  

八月の半ば、九州では夏の真っ盛り、聖フランシスコは兄弟レオとともに、福岡の小郡駅に降り立ちました。陽がカンカンと照る中を、クララ会に向かいます。茶色の修道服を着て、二人は汗だく。
(聖フランシスコは兄弟レオの方を振り向いて)


F 兄弟レオ。
L ハイ なんでしょう。
F 私と歩みを共にする在世会の兄弟姉妹、小さき兄弟たち、クララ会の姉妹たちが、至る所で、すぐれた聖性、厚い信仰のすばらしい模範を示し、みなに感嘆されても、そんなところに完全な喜びなどないのだよ。
L そうですか。とても素晴らしいことで、すごい喜びだと思いますけど。
F いや、たとえ誰かがやって来て、数えきれない程の多くの人々が在世会に、小さき兄弟会に、クララ会に入ったと私たちに知らせても、そこには完全な喜びはないのだよ。
L はあー。
F たとえ私の兄弟、姉妹たちが全世界に行き、すべての人々を回心させたとしても……、
L その時は? 父よ。
F ああ、その時でさえ、兄弟レオ、まだ完全な喜びはないのだよ。たとえ、奇跡の賜物に恵まれて、足のなえた人を歩ませ、目の見えない人に光りを与え、耳の聞えない人を聞えるようにし、さらに偉大なことには、死んで四日もたった人を甦らせたとしても、その中にも完全な喜びはないのだよ。
L ふーん
(沈黙のうちに考え込む)
 さらに少し行くと、聖フランシスコは再び声高く叫んで言いました。
F 兄弟レオよ。
L 父よ、私には全く分りません。
F たとえ、あらゆる知識、また聖書のすべてに通じ、預言の賜物を持ち、さらに未来のことばかりか、他人の良心や魂の秘密までも明らかにできるとしても、その中にも完全な喜びはないのだよ。
(レオはあっけに取られて師父の顔を見るばかり)
F おお、兄弟レオ、私たちが天使の言葉を話し、天体の運行と広大な果てしない宇宙の様子のすべてを知り、毛利さんや向井さんのように宇宙にまで行って、立派な働きをしたとしても、さらに人間や木や石や水の本質を知り、コンピューターを自由に操って世界を駆けめぐったとしても、―――よく分かってほしい、そこにも完全な喜びはないのだよ。
(沈黙のうちにさらに少し行くと、聖フランシスコは力のこもった声でレオに呼び掛け言いました)
F 兄弟レオ。
L 父よ、完全な喜びとはどこにあるのですか?早く話して下さい。
F そうだ、私たちが九州のこの暑い焼けつくような道をやっとのことで歩き、喉もからからにして真っ赤な顔になってクララ会に着いたとする。そしてインターフォンを鳴らすと、出てきた姉妹の無愛想な声が聞える。「誰ですか。こんな暑いさ中に!」「私です。兄弟フランシスコとレオです。聖クララのお祝いを一緒に祝いたいと思って来ました」。中からの冷たい声が聞える。「そんなはずはないでしょう。師父が私たちのところへ来て下さるなんてことはないでしょう。開けることは出来ません。」
 お玄関の聖クララのご像の上に住み着いている子育て中のスズメからは何かが落ちて来る。「ピンポン」「ピンポン」何度鳴らしても、もう出て来ない。ついに座り込んで、三十分、一時間、「ピンポン」。
 別の人かと思って出てきた姉妹。「フランシスコとレオです」もう声も出ない程疲れきっている。「せめて冷たい水でも一杯ください」「だめです。あなたたちはそこらをうろつき回って、教会や修道院を荒らしているならず者たちでしょう。さっさと帰ってください。」とどなられる。出て来てもくれない。
 この時、こんな不正、こんなつれない仕打ち、こんな拒絶にあっても、ただ忍耐するだけでなく、甘んじて腹も立てなければ、不平も言わず、さらにへり下り、かつ尊い愛に満ちて、姉妹の言ったことは本当だ。神が彼女たちを使ってそう語らせているのだと思うならば、兄弟レオ、そこにこそ完全な喜びがあるのだよ。

(レオ、在世会員、クララ会の姉妹の前で)
F さて、兄弟レオとすべての小さき兄弟、在世会の兄弟、姉妹、クララ会の姉妹たち、キリストがその友にお与えになる聖霊のあらゆる恵み、賜物にも越えてすぐれているのは、自分に打ち勝ち、キリストへの愛から、苦しみ、ののしり、非道、不快を喜んで耐え忍ぶことである。何となれば、神の他の賜物はことごとく、私たちの誇りとすることは出来ない。それは私たちのものではなく、神のものだからである。それゆえ使徒も言った。「あなたの持っているもので、もらっていないものが何かあるか。もし、もらっているのなら、何故もらっていないもののように誇るのか」と。しかし、十字架や悲しみや苦しみは、私たちの誇りとしても良い。これこそは私たちのものだからである。この故に、使徒は言った。「私は、私たちの主イエズス・キリストの十字架のほかには、何も誇りとしないであろう」と。
(みなで喜びの歌を歌う。)