信仰の旅路をたどる

[2000年8月15日号(164号)巻頭言]

高松教区 深堀 敏 司教

  聖母マリアの栄光ある被昇天の祭日のミサで朗読される福音は、次の言葉でしめくくられます。「マリアはエリザベトのところに二ヶ月ほど留まり、そして、家に帰った」。
 マリアはナザレの自宅を出て、ユダの山地の村に出かけました。主のお告げによって、前代未聞の出来事がわが身に起こったことを知らされたすぐあとのことです。「力あるおん方がなさる偉大な業」の知らせに圧倒されながら、エリザベトのところに着かれると、この人にも神の不思議なはたらきのあったことを知ります。

聖霊に満たされた二人の母は、神の救いのご計画が自分たちの身に成就するのを信じ、感謝と賛美の時をすごします。
  やがてマリアはエリザベトの家を辞してわが家に帰っていかれます。マリアの家、それは人の手によって建てられたものではなく、神の住まい、神が特に愛する者のために準備なさった部屋、隠れておられる神が、隠れたことをお知らせになる聖なる場所です。
「あなたがたは祈るとき、奥の部屋へ入って戸をしめ、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6・5)
 神が待っておられる部屋に入っていく道のりは「信仰の旅路」、巡礼の歩みです。マリアのひそかな巡礼はこのときから「地上の生活の道のりを終えて、肉身・霊魂ともども天の栄光にあげられる」(教会憲章59)まで続きました。救いの業に身も心もささげつくされる御子のうしろから、そっとついて行かれるときもあったでしょう。しかし、もっともきびしいマリアの巡礼は、十字架をになってカルワリオの丘を登っていかれるイエスと一緒に、重い歩みをなさったときの巡礼ではなかったでしょうか。それは「隠れたところにおられる神」をめざして暗黒のなかをたどる巡礼でした。
 しかし今日、神の永遠の家にあげられます。それは「神の家に行こうと言われて、わたしの心は喜びにはずんだ」そのような最後の巡礼です。マリアはいつでもどこでも、一歩一歩をたしかめながら前に向かって行かれました。
 わたしたちも大聖年のあいだ、神の愛のうちに憩う日をめざして、マリアと一緒に巡礼の道のりで同じ希望の歌をうたいます。