「冬のソナタ」愚考 その二

3月13日

アンジェロ 春山 勝美 神父
Fr.Angelo Haruyama Katsumi, OFM
haruyama@netvision.net.il

死の別の面を考えさせられました。

死が霊魂と肉体の分離であり、霊魂(人)はこの世の行いによって、天国に迎えられ、あるいは、地獄に落ちる。いのちの世界から切り離された人の行く末を問題視します。別の面とは取り残された人の悲しみです。

子供が犯罪犠牲者となる事件が多発しています。最近では、奈良の小学生が誘拐、殺害された事件がありました。数時間後、遺体となって放置された子供が発見されました。変わり果てた子供と出会う親がその例です。

死者への悲しみは愛の深さに比例します。

下請けの現場班長が妻の命日に深酒し、凍死寸前で救助されたものの、自己管理が出来ない者として、工事責任者ミニヨンは彼を解雇します。ユジンが解雇しないよう、ミニヨンに頼む場面は印象的でした。「死者に対するプレゼントは忘れてやることだ」と。チュンサンを忘れることの出来ないユジンにとっては自己否定を迫る残酷なことばです。ユジンが言い返します。「今までに人を心から愛したことがありますか。あるはずないわ。」「今まで傍で、息をしていた人が突然消えてしまうのが、どんなものか知っていますか。」「何一つ、変わっていないのにその人だけ、いない感じが、どんなものなのか。その寂しさが分かりますか。」「それで、涙を流すのが、そんなに間違っていますか。」

部屋に戻って、母親と電話する場面になります。幾つになっても子供は子供、寒冷地で仕事するユジンに防寒服を送ろうかとか、たわいない話をしながら、ユジンの異変に気付く母親。15年過ぎても夫との暖かい思い出に生きるお母さんに励まされるユジン。

また、お母さんが倒れたとの知らせで、見舞ったユジンを、返って、娘の幸せを願い、こまごまと諭す母親。

私の母もそうでした。心臓の半分はすでに壊死した状態で生死の境にありながら、危篤の報せで病室に見舞った私を見ると、枕を外そうとします。「何するの」と尋ねると、「お前は遠くから来たのだから疲れているだろう。そこで休みなさい。」と。そして数年後、死の数時間前、弟か駆けつけた時も、同じことをしました。子供を思う親は同じで、文化や宗教、民族や言語に違いがあっても、親心は時代を超えて生きています。

聖母マリアも母親です。十字架の道行きを傍らで見届け、衣服を剥ぎ取られた時は恥辱にわななき、十字架に打ち付けされた時は打ち込む釘の音、一つ一つが心臓に打ち込まれる思いで耐え、苦しみながら死んでゆくイエスを、ただただ、見守ることしか出来ない、無力さに絶望したのでしょう。

子供は授かり者と言われます。聖母は、唯一例外的に、子供を授かった母親です。男を介してではなく、聖霊による受胎だったからです。このイエスが、神の名によって、殺されました。

人の悲しみは計測出来ません。子供に先立たれた母親、愛する人を突然奪われた人なら、聖母の苦しみ、悲しみ、絶望に特権的に共感できるはずです。また、聖母もこのような人のそばで、あのときの苦しみを思い出していることでしょう。

聖墳墓では、主の受難の一週間前、今年は3月18日、聖母の七つの悲しみを記念します。